M1村田宏彰公認会計士事務所
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弁護士である義理の親族が亡くなり、告別式に参列してきた。
そこであるハプニングがあった。
火葬場に行き、待合室で火葬が終わるのを待っていたときのこと。
小一時間も待った頃、1人の青年が入ってきて、すたすた喪主に挨拶に行ったと思うと、いきなり泣きじゃくり始めるではないか。
人目もはばからず涙を流し、頬を濡らす涙を繰り返しぬぐい続ける姿に、一同、目が釘付け。
「あれは誰だ?」
通夜にも告別式にもいなかったその青年を、喪主以外は誰も知らないようだ。
喪主が青年の肩をたたいて慰めるその姿から、親しい様子が読み取れる。
いやが応にも疑問が膨れ上がったとき、骨上げに呼ばれ、疑問を抱えたまま、待合室を後にしたのだった。。
精進落としの後、喪主に事情を聞いた。
合意だったはずなのに婦女暴行で訴えられ、故人が国選弁護人として弁護し、執行猶予を勝ち取ったそうだ。
その青年の家族は全員、歯医者だったそうだから、優秀な弁護士をいくらでも雇えたはずなのに、国選弁護人を依頼せざるを得なかったことから、家族の恥さらしとして誰もお金を出さなかっただろう事情を、容易に想像できる。
エリート一家から出た犯罪者。
いわば村八分であったろう。
そんななか、信じ、励まして、執行猶予を勝ち取った。
執行猶予期間中も、再犯すると刑が重くなるため、半年ごとに心配のTEL。
青年に彼女ができたら、一緒に家に食事に呼んだりと、息子同然の目のかけよう。
やっつけ仕事とは言わないまでも事務的な国選弁護人が多い中で、故人はそこまで親身になった。
家族から見放された青年にとって、実の親以上に近しい存在だったに違いない。
それなのに、その死に目にも会えず、火葬前に拝顔することすらできなかったのは、痛恨の極みであっただろう。
「なんかね、最近いろんな人に会って、それでね、あ、この人って本当にこの道のプロだなあ、って痛感するときがあるのね。
うまく言葉にできないんだけど、たとえばウエイターでも、ホテルマンでも、弁護士さんでも、お医者さんでも、なんかね、あるタイプの人は、そこに存在して仕事をしているだけで、その人の仕事に私が接しただけで、私がクレンズされちゃうの」
「クレンズ?」
「うん、それまで鬱々として濁ってたものが、一瞬にしてピカピカのきれいな水に変わってしまうような、そんな感じ」
「なんかわかる」
「ほんとにね、ごくたまにだけれど、そういう仕事人がいてね、そういう人の仕事に触れるだけで、私の日常がお掃除されたみたいになるのね。
すごいな、って思うの」
「あたしはそういう仕事してきたかなあ・・・と思って。
誠意をもって、最大限の集中力を払い、それでいてエレガントに、かつ明晰に、そして大胆に・・・・。そういう感じなんですよ、彼らは。
常にパースペクティブがあり、そのくせ直感的なの。かっこいいの。そういう風になりたいなあって、思うんだよね。
残りの人生で自分も・・・・」
名人の仕事ってのは、周りにいる人間を、クレンズしちゃうんだよ。
ものすごく落ち込んだとき、とてつもなく嫌な言葉に触れたとき、自分が辛い体験でボロボロになっていじいじしちゃうとき、悲しいことが重なってどんよりしちゃうとき。
そういうときが人生にはままある。
いろんなふうにして、心には細かくて薄汚い澱がたまる。
どうしても溜まっていく。
しょうがないことだ。
そういうとき、自分の仕事、自分の役割に、片意地張るでもなく、威張るでもなく、それを楽しんで、ただもう誠実に、真っすぐに向きあっている人たち、そういう人たちに出会うと、言葉ではなく励まされる。
自分の役割を全うしてる人は、きっと、ただ存在しているだけで、もうそれだけで、たくさんの人を支えているんだと思う。
たぶん、その人は『労働』ではなくて『働き』をしているんだろう。仕事は、自分が『働き』という作用を担うための手段。
―――最後まで生き方を教えてくれた父であった。
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